お元気様です!
登る保育士ホイクライマーです。
前回「よい保育とはなにか?」という記事で、「絶対によい保育」はないという話をしました。
この内容には基本的に同意してもらえているのではないかと思っています。
けれど、同時にこんなモヤモヤ感も持ったのではないでしょうか?
「とはいえ、共通して大切なことや原理的なことはあるんじゃないの?」
「最も底に敷かなければいけない基盤ってないの?」
と。
そこで、今回は「よい保育」をする上での、哲学原理について考えていきたいと思います。
- 前回の記事を読んで興味を持たれた方
- 教育・保育について深く考えてみたい方
- 子どもと関わる機会のある方
にはとても示唆に富んだものになると思います。
ぼくも目からうろこが落ちました。
前回同様、苫野一徳先生の著書『学問としての教育学』を参考に見ていくこと、
著書の中では公教育について書かれており、その中で保育に関連のある一部分を抽出して紹介させてもらっていることをご了承ください。
その上で、最後の部分で保育と繋げて考えてみています。
では、いってみましょう!
共通了解可能な「よい教育」とはなにか?
「よい教育」をすり合わせる以前に、みんなが共通了解できそうなよい教育があれば、とても心強い「よい教育」を考える時の拠り所となるはずです。
本書ではそれを「自由への欲望が実質化されること」であると言います。
少し難しいと思うので、詳しく見ていきましょう。
まず、人間は常に欲望を持って世界を見ています。
これは「お金持ちになりたい」「サッカーが上手になりたい」などの、具体的な欲望だけではありません。
「幸せになりたい」「暴力を受けたくない」といった先の例より漠然としたものも欲望です。
そう考えると、人間は常に意識的・無意識的に欲望を持っていることがわかるでしょう。
きっと、みなさんも今現在いろいろな欲望を持っていると思います。
では、すべての欲望を達成したら欲望の全くない、満たされた自由になれるでしょうか?
残念ながらそうはなりません。
なぜなら、新しい欲望が生まれるからです。
つまり、人間は常に欲望があるゆえに、常に不自由な状態となっているのです。
けれど、自由になれないわけではありません。
ある欲望が達成されたり、達成されなくてもその欲望をなだめることができたり、克服できたりした時に、不自由から解放されて、自由を感じることができます。
例えば、「友だちがたくさん欲しい」という欲望を持っている人であれば、友だちをたくさん作ってその欲望から自由になったと感じることもあれば、「少人数でも繋がりが深い方が大切だ」と思い直したことで「友だちがたくさん欲しい」という欲望から自由になることもあるようにです。
こう見ていくと、「自由になりたい」というのが、人間の根源的な欲望だということがわかると思います。
だからこそ、人間を育てるという教育においては、その「自由になりたい」という根源的な欲望を実質化することが「よい教育」の前提条件になるのではないかと言っているのです。
大切なのは「自由な状態」ではなく「自由の感度」
ここで注意しておきたいのが、目指しているのが「自由な状態」ではなく、「自由だと感じること」だということです。
先ほどの「友だちがたくさん欲しい」という例で考えてみましょう。
この欲望の通り、友だちがたくさん出来たとします。
では、この友だちがたくさん出来た「状態」は絶対に自由だと言えるでしょうか?
残念ながらそうは言えません。
なぜなら、友だちがたくさんいることで、連絡を取り合う時間が増えたりと前よりも不自由だと思うこともあるからです。
しかし、欲望を克服したことで、不自由を克服した瞬間の「自由を感じる」ことは誰にとっても共通だと言えるでしょう。
これは、もちろん「少人数でも繋がりが深い方が大切だ」と思い直せた時も同様です。
「友だちがたくさん欲しい」という欲望を別の形で克服したことで、不自由から自由になっているのです。
このように、大切なのは欲望を克服した「状態」になることではなく、欲望を克服したと「感じる」ことであり、その克服するための力を身につけていくのが、教育の本質ではないかということです。
自由の相互承認
では、それぞれが好きなように自由を感じられればいいのでしょうか?
それは違います。
なぜなら、人々が好き勝手に自由を求めていたら、自分の自由が奪われてしまうからです。
暴力や奴隷制はその最たるものでしょう。
片方の自由を得るために、もう片方の自由を奪う。
このやり方では、全員の自由を保障することはできません。
どうすればいいのか?
相手にも自由があることを認めるのです。
そして、お互いの自由がぶつかった時に、互いに自由を感じられる妥協点を探し出すのです。
それこそが「自由の相互承認」。
自分の自由とともに、他者も自由であることを認める考え方です。
これがなければ、自分の自由もいつ奪われるかわからない不安定なものになってしまいます。
そう考えると、共通了解可能なよい教育の原理である「自由への欲望が実質化されること」を達成するためには、「自由の相互承認」も不可欠と言えるでしょう。
保育へ活かす
さて、教育において「自由への欲望が実質化されること」と「自由の相互承認」が底に敷くべきベースとなることはわかりました。
これらがなければ、どんなに学力を上げても、自分の欲望と折り合いをつけつつ、他者と関わりながら平和に生きていくという、人間にとって大切な力が置き去りにされてしまいそうです。
では、これは学校教育だけに限定されるものなのでしょうか?
そんなことはありません。
乳幼児教育においても、非常に大切な考え方だと思います。
むしろ、その最も初めの段階として、より重要度が高いとさえ言えるでしょう。
乳幼児期を通して、子どもは自分と違う考え方を持つ他者を発見します。
おもちゃの取り合い、自己主張のぶつかり合い、思い通りにならない体験・・・。
それらを通して自分とは違う考え方を知り、解決の方法や気持ちをコントロールする方法を学んでいきます。
これはまさに「自由への欲望が実質化されること」と「自由の相互承認」の基礎となる力なのではないでしょうか?
とすれば、乳幼児教育の現場でも、「よい保育」の前提として底に敷くべきものなのではないでしょうか?
例えば、何かをやってみたい、出来るようになりたい、知りたい・・・。
これらは全て自由への欲望と言えるでしょう。
そう考えると、この欲望がどんどん出てきて、それを克服していけるのが、よりよい保育と言えるかもしれません。
ですが、子どもの決定権が少ないと、この欲望も少なく小さくなってしまうでしょう。
また、やりたいことが増えてくれば、その中で他者との意見の相違も出てきます。
その中で、自分たちで解決できるようになっていくことは「自由の相互承認」の基礎になる感覚だと言えます。
でも、大人が介入しすぎるとその力は身につきにくく、介入しなさ過ぎると解決法がわかりません。
このあたりのバランスを考えていく中でも、「自由への欲望が実質化されること」と「自由の相互承認」というベースを持っていることは、非常に頼もしいものになっているのではないでしょうか?
このように、保育においてもその根幹をなす哲学理論と言えると考えています。
まとめ
いかがだったでしょうか?
今回は公教育において大切な哲学原理「自由への欲望が実質化されることと自由の相互承認」について紹介しつつ、保育と繋がる部分について考えてみました。
人間の根源的欲望が「自由になりたい」ということだというのは、自分に置き換えてみても非常に説得力があり、大きな発見でした。
同時にそれを実質化することが教育において大切なことだというのも、学力、人間関係、生きがい、いじめ・・・多岐に渡ることがらを包括していて、改めて哲学原理としての強力さを感じました。
だからこそ、その始まりである乳幼児教育においても大切であること、保育士も意識すべき哲学原理であることを痛感したのです。
この哲学原理は、保育業界でも共通認識として、底に敷くべき考え方でしょう。
ぜひ、保育士の方にも読んでもらいたい一冊です。
また、記事内ではかなりざっくり説明していますが、本書の中では「なぜ人間の根源的欲望が自由だと言えるのか?」「人間はなぜ欲望に規定されていると言えるのか?」など、より哲学的に論証もされています。
記事を読んで、「ここはそうとは言えないんじゃない?」「なるほどな」と思った方は、ぜひ本書を手に取ってみてください。
きっとより納得感が増し、記事では触れなかった内容から新たな考え方が得られると思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
コメント
≪…「自由への欲望が実質化されること」と「自由の相互承認」…≫を、高木貞治らの「数学の自由性」に観る。
[・・・無限・・・ 私達は、常に有限しか体験することができない。」
[幸運によって発見された特異な展望台に立つとき実際、本当に、あたかも実感的に、差別が平等に見えるのである。](「清新明朗なる数学」)
「美の幾何学」の[曲がった空間での出来事]で、安野[恥ずかしいくらい素朴な話ですけれど……。われわれの地球はくるくる回ってるけれども、回りながら太陽のまわりをさらに回り、しかも太陽系そのものが宇宙の中を動いている。だから,いま春なら春だとすると、一周して回ってきた春というのは同じ位置じゃない。]を「ふたりで半分こ」の本歌取りで観てみたい・・・
egardez ce beau soleil qui brille brille
Nous voulons chanter une chanson Jolie
Quand le ciel est beau le ciel est vaste vaste
Partons en voyage dans ce beau pays.
折り紙がいちまい あったら あったら
ジョリィとボクとで 半分こ
ちょっぴりかなしく なったら なったら
分け目に1たて 三角に
三角あわせ しかくになって
マタマタ分けると 半分こ
つづけてつづけて 斜辺に 1たて
数える 半分こ
ホラ いつでもなかよく 半分ずつ
立てた1向かい合わせになったらなったら
ジョリィとボクとで ながしかく
つかれてさびしく なったら なったら
ジョリィ(i)の手枕で休むよ
なにかいいこと あしたはおこる
ワクワクするのも 半分こ
基線になったらなったら 1+1の半分こ
やさしいはるかぜ ふいたら ふいたら 希望も 半分こ
Regardez ce beau soleil qui brille brille
Nous voulons chanter une chanson Jolie
Quand le ciel est beau le ciel est vaste vaste
Partons en voyage dans ce beau pays.
みしらぬπにやさしくされて
まあるい円も半分こ
基線のかぜが ふいたら ふいたら 円も半円に
ふたりでつづける 数のみちは
ホラ なんでもなかよく 半分ずつ
折り紙が一枚 あったら あったら
ジョリィとボクとで 半分こ
ためいきつきたく なったら なったら
なやみもふたりで 折り目に
たまにはながしかくも すがたを見せて
スッキリ見ると 半分こ
すぐまたなかよく なったら なったら えがおも 半分こ
ジョリィは、基線に立てた1で・・・ 円になれば点に変身・・・
ボクは、基線1だが平面を回り大きくなる1・・・ 円になれば半径に変身・・・
分け目は、折り紙の対角線(√2) 最初の正方形(1×1)
分け目に1たて三角に 2番目の長方形(『ヒフミヨ矩形』)の[半分こ]線(√3)
立てた1向かい合わせになったらなったら は、『ヒフミヨ放射』を対角線([半分こ]線)とする『ヒフミヨ矩形』
折り目・斜辺は、『ヒフミヨ放射』
ジョリィ(i)の手枕で休むよ 斜辺と[1]が直交(i)しているコト
基線になったらなったら 1+1の半分こ 基線1が基線軸になると直径は半径の半分こ
基線のかぜが ふいたら ふいたら は、極座標での横軸と『ヒフミヨ放射』との重なり
たまにはながしかくも すがたを見せて ジョリィの[1](i)は、『ヒフミヨ渦巻』で、『ヒフミヨ矩形』を持っている
フランス語に想いを・・・
[ キラキラ輝く太陽を見上げて
ステキな歌をうたいたいな
空が晴れて、きれいに広がったら
あの美しい国へ旅に出かけよう ]
を
キラキラ輝く太陽を見上げて
「手のひらを太陽に」をうたいたいな
空が晴れて、きれいに広がったら
いつの日にか星へと、旅に出かけよう
に数の言葉ヒフミヨ(1234)を眺望したい・・・
1・2・3・4次元を纏め上げている カオスなコスモスなカタチは、1・2・3・4次元の[1]を眺望できる『創発直方体』
1・2・3・4次元を纏め上げている カオスでコスモスなカタチは、[π体]で・・・
『釣鐘体』 『富士山体』
『カルデラ体』『朝顔体』
『創発円筒体』から何らかのカタチを削り落とすと[π体]になる・・・
[・・・無限・・・ 私達は、常に有限しか体験することができない。」
これはまさに、現象学的視点ですよね。数学者の方でも、同じ哲学にいきつく人がいるのだなあと驚きました。
「ふたりで半分こ」の本歌取り、おもしろいですね。
元の歌も見てみましたが、数学的な要素をふんだんに取り入れているのに、ボクとジョリィの関係性がそのまま表現されていてほっこりしました。
特に「ジョリィとボクとで ながしかく つかれてさびしく なったら なったら ジョリィ(i)の手枕で休むよ」のところが、図形の性質と2人の関係性が溶け合っていて素敵だなと。
解説もつけてくれているので、とても読みやすかったです。
いつもありがとうございます!