著:ポール・ブルーム 訳:春日井晶子 解説:長谷川眞理子 出版:ランダムハウス講談社
芸術・道徳・神様など、人間には他の動物に見られない考え方がたくさんあります。
それらはどこから来るのでしょう?
生まれつき持っているもの?
それとも、教育の中で手に入れていくもの?
そんな疑問に、赤ちゃんとして生まれた時から持っているものと、成長の中で手に入れていくものを比べつつ、解き明かしていくのがこの本です。
この記事では、その中でも面白いと思った、「赤ちゃんの力」と「道徳の輪」について詳しく紹介していきたいと思います。
読めばきっと、赤ちゃんの知られざる凄さ、道徳の輪の面白さと怖さなど、新たな発見があると思います。
人間の心や哲学に興味がある人、子どもの心理に興味がある人、自閉症への新たな見方が欲しい人には特に面白い内容になっていると思うので、ぜひ楽しんでいってください。
本書の前提~人間の色んな力は副産物~
まずは本書の前提をざっくり書いておきます。
それは、生き残るために手に入れた力だけじゃなく、その力から生まれた副産物もたくさんあるよと言うことです。
二足歩行するようになったのは、手で道具が使えることで、生き残りやすかったからでしょう。
でも、人間は二足歩行できるようになったことで、サッカーをするようにもなりました。
サッカーは生き残るために必要ありません。
そんな副産物がたくさんあって、それが人間社会を豊かにしていますよということです。
ものすごくざっくりなので、詳しく知りたい人は本書を読んでください。
前提がわかったことで、早速内容に入っていきましょう。
赤ちゃんは物理法則を知っている!?
はじめに赤ちゃんの持っている力について見ていきましょう。
赤ちゃんはほとんど何も知らず、成長するにつれ力を手に入れていくと思われていました。
しかし、実は赤ちゃんは生まれながらに、様々なことを知っているかもしれないことが、実験によってわかってきたのです。
その実験では、赤ちゃんの目の動きを使います。
赤ちゃんは、新しいものや予想外の出来事を見ると、それに注目する特性があります。
反対に、予想通りのことには驚かず、すぐに飽きて顔をそむけます。
つまり、新しいものや予想外の出来事は、長く見続けるのです。
これは大人と同じです。
驚いたものはよく見て、タネや仕掛けを探したりするでしょう。
この特性を使いある実験をしました。
それは、
- まず向こう側が見えない衝立の後ろに、ぬいぐるみを一つ置きます。
- さらに、もう一つぬいぐるみを置きます。
- そして衝立を外します。
この実験で、衝立を外した時、ぬいぐるみが2つあれば、赤ちゃんは特に驚きを見せませんでした。
しかし、衝立を外した時に、ぬいぐるみが1つしかないと、赤ちゃんは二つあった時より長く見つめているという結果になったのです。
つまり、物の増減に対する基本的な感覚があるということになります。
他にも様々な実験で、物が落ちること、物は急に消えることがないと思っていることなどが発見されました。
これは重力や、物は勝手に動いたりしないという、物体に対する基本的なことをわかっているということです。
同時に、生き物に対する反応も見てみると、生き物と物体を区別してみていることがわかります。
赤ちゃんは、動いている生き物ではない物体が動かなくなると興味を失います。
しかし、目の前にいる人の表情が急に動かなくなり、無表情のままになると動揺を見せるのです。
これらのことから、生まれながらにして、ある程度生き物と物質を区別していること。
物質については、ある程度の物理法則を理解していることが考えられるのです。
急に近くのもが動いたり騒ぎ出したら?~自閉症の世界~
さて、この物質への理解は、どんな障害を持っていても失われることはないと考えられています。
しかし、生き物への理解は、障害によって失われることがあります。
その典型的なものが自閉症です。
「マインドブラインドネス理論」という考え方があります。
これは周囲の生き物が、生き物ではなく、物質として見えるというものです。
もし、自分の身近にあるものが、急に動いたり、音を出し始めたらどう思うでしょうか?
人形がしゃべり出したり、掃除機が形を変えて動き出したり・・・。
そこは完全にホラーの世界だと思います。
この考え方に自閉症の人の行動を照らし合わせてみると、納得できることが多くあります。
人を物のように扱うこと。
人の動きを怖がったり、大きな反応を返すこと。
物質しかない世界に生きていたら、それらは当然の反応なのかもしれません。
道徳感情は生まれながらに持っている?
ここまでは、物質の世界を中心にお話してきました。
ここからは、生き物の世界についてお話していきます。
生き物、特に人間との関係で大切なのが、相手の心に共感し理解する力です。
では、なぜそんな力を手に入れることになったのでしょう?
その力が、生き残っていく中で、どんな役に立ったのでしょうか?
それは、集団で生きていくために、とても有用な力だったからです。
協力し、お互いに必要なものを知るためには、相手の心を理解する必要があります。
もちろん、それは普段生活をする他の動物にも言えることです。
しかし、人間はその規模が違います。
1000や10000という単位で、集団生活を送るのは人間だけです。
なので、より広く交流し、コミュニケーションをしていく必要がありました。
それに合わせ、他の動物よりも心を理解する力が進化していったのだと、考えられるのです。
そして、その進化の流れで手に入れたのが、道徳感情だと考えられます。
道徳感情は、周囲へ有益な効果をもたらします。
ひいては、集団全体の利益に繋がっていくのです。
世界の果てまで広がっていく道徳感情~道徳の輪~
ここで一つ不思議なことがあります。
家族や国などの、小さな集団に対して、道徳的に行動することは、確かに有益だと納得できる人が多いでしょう。
しかし、人間は遠く離れた国の人々に共感し、寄付をしたり、手を差し伸べたりします。
もちろん、人間という大きな種として考えれば、より人間が多く生き残るために有用だと言えるでしょう。
けれど、遺伝子がそんなに大きな規模で、作用しているのでしょうか?
恐らくそんなことはないでしょう。
本書では、この道徳の広がりを、「道徳の輪」と表現しています。
文化の進歩とともに、この道徳の輪が広がっていったのです。
道徳の輪の広がりには4つの要素が考えられます。
それが、
- 相互依存:知性とテクノロジーにより、両者ともに利益を得る、相互依存関係が強まったこと。
- 接触:遠くへ移動できるようになったり、遠くの情報を知ることが出来るようになり、他者と接触する機会が増えた。他者と接触することが、共感へと繋がる。
- イメージや物語による説得:相手の立場に立つように促し、触接的に操作する。誰かの持つ道徳観を、他の人へ伝えていく力がある。
- 道徳的な洞察の積み重ね:これまでの人が、それぞれの時代に道徳について考えた洞察を、後の時代の人が利用し、積み重ねてきたことで広がっていった。
これらが、文化の進歩とともに、道徳の輪を広げていったのだと考えられます。
子どもが道徳の輪を広げる方法
上で見た、4つの要素。
実は子どもの中にある、個人的な道徳の輪を広げていくための要素でもあります。
- 他の人と接触が増えた時。
- 協力し合うことで、互いに利益を得るような状況で交流した時。
- 実話やフィクションで物語に触れ、遠くにいる誰かの立場に立って考えようとした時。
- 昔の人々の道徳観に触れた時。
赤ちゃんは、最初に家族など、身近な人々の呼びかけに反応を返します。
これが、最初の道徳の輪となります。
その後、上記の要素に触れる中で、道徳の輪を広げていくのです。
なぜ、他人の道徳の輪とぶつかるのか?~道徳の輪の広さ~
さて、こうしてみていくと、道徳の輪はとてもいいもので、進化を続けているように見えてきます。
確かに、奴隷制が当たり前だった頃などに比べたら、進歩だと言い切れるでしょう。
しかし、周りを見渡せば、そこかしこで互いの道徳観をぶつけあう様子が見られるのではないでしょうか?
ヴィーガン、フェミニズム、クローン技術、妊娠中絶・・・etc
これはどうして起こるのでしょう?
そこには道徳の輪の適用範囲が関係しているようです。
前提として、道徳には公正さが不可欠です。
アフリカ人が奴隷にされていたことに怒りを覚えるのは、同じ人間なのに不当な扱いを受け、公正さに欠けるからです。
自分の境遇に対して、不当だというのは、周囲と比べて自分が不当な扱いを受けていると思うからです。
動物の肉を食べないのは、家畜たちも人間も、生き物として平等な命だから、食べるために殺すのは公正ではないと考えるからでしょう。
では、公正さを求めているのに、なぜぶつかり合うのでしょうか?
それは、道徳に含める範囲が違うからです。
アフリカ人を奴隷にしている人にも、道徳観はありました。しかし、その道徳にはアフリカ人が含まれていませんでした。
動物の肉を食べる人は道徳観のない、血も涙もない人かと言えば、そんなことはありません。
ナチスドイツにも道徳観はありましたが、ユダヤ人は適用外でした。
こう見ると、道徳の輪は広い方がいいと考えられるかもしれません。
しかし、広すぎる道徳観は、様々な自由を狭めることになるのが難しいところです。
例えば、胎児に権利があると考えれば、中絶は出来なくなります。
それは犯罪などで、望まぬ妊娠をした妊婦の自由を狭めることに繋がります。
昆虫を踏まないよう歩く仏教徒は、肉とジャガイモを食べて暮らす人より、道徳的でしょうか?
皮膚細胞とパソコンには、同じ権利を与えるべきですか?
どうやら、広ければよいというものでもなさそうです。
これは複雑な問題になればなるほど、どこまで適用するのかが難しくなってきます。
ただ、自分の道徳の輪がどれくらいの広さにせよ、相手のにも道徳の輪があり、その適用範囲がみんな違うことを頭に置いておくのは、とても大切なことではないでしょうか?
恐ろしいのは道徳の輪が狭まる時
最後に、道徳の輪が狭まる時について、お伝えしておきたいと思います。
これまで、道徳の力や、その広がりについて書いてきましたが、この広がりは普遍的なものではありません。
道徳の輪には中心があります。
それが家族や近しい人です。
その人たちと信頼関係を作りつつ、道徳の輪が他者へと広がっていくのです。
そして、広がる時もあれば、狭まる時もあるのです。
恐ろしいのは、道徳の輪が大きく狭まった時。
アウシュビッツ、粛清、民族浄化・・・。
これらはどれも道徳の輪が狭められた時に起こりました。
では、どんな時に道徳の輪が狭まるのか?
それは、困難に直面した時です。
戦争中や、社会・経済が崩壊した時、大きな不安がのしかかってきた時・・・。
ナショナリズム的な傾向を強め、自分と似たような人を好み、似ていない人を嫌うようになります。
なので、困難な時ほど、自分の道徳の輪が狭まっていないか、立ち止まって見直してみてください。
きっと、みんなで見直してみることで、道徳の輪が狭まることで起こる悲しい出来事を、回避できるはずです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
この記事では、人間が生まれながらに持っている力が、どのように道徳に繋がり、人間の社会にどのような影響を与えてきたかを書いてきました。
本書の中には、より詳しい実験の内容や、主張の背景にあることなどが、詳しく書かれています。
また、共感からさらに進み、自分という精神のありかや、神をなぜ信じるのかについても書かれています。
どれも、科学的な目線で書かれた、とても面白い内容なのです。
この記事で気になった方は、ぜひ実際に読んでみてください。
コメント