「よい保育」ってなんだろう?~現象学の視点から【学問としての教育学、苫野一徳】

保育

お元気様です!

登る保育士ホイクライマーです。

みなさんは、「よい教育や、保育ってなんだろう?」「絶対によい保育ってなんだろう?」と考えたことはありませんか?

科学や数学のように、公式や定理などがない教育・保育の分野。

正解も無ければ、子どもとの関わりがすぐに効果として現れるわけでもありません。

けれど、「子どもの気持ちを受け止める」「自分で決める機会を増やす」など、確からしいこともある気がします。

そんな中で、万人が納得する「よい教育・保育」というものはあるのでしょうか?

今回はこの哲学的な疑問にとても納得感を与えてくれた、苫野一徳先生の『学問としての教育学』という本を元にお話ししていきます。

この本では、教育を扱っているのですが、内容としては保育とも多くの部分で通じていると感じたので、保育に置き換えてお話していこうと思っていますので、その点はご了承ください。

きっと、「よい保育」を考えたことがある人には、とても納得感があり、「よい保育」を作るための大切な考え方を知ることができると思います。

ぜひ最後まで見ていってください。

それでは行ってみましょう!

「よい保育」ってなんだろう?

まずは、「よい保育」について少し考えてみましょう。

万人が納得する「よい」というものはあるのでしょうか?

それでは、「子どもの心を受け止める」という、一般的に「よい」とされていると思われる保育について考えてみましょう。

これは万人が納得できるもののように思われます。

ですが、「どこまで受け止めればいいのか?」「どんな風に受け止めればいいのか?」と聞かれたら、明確に答えられる人はいるでしょうか?

「その子どもによっても違う」「その場面によっても違う」と思う人は多そうです。

そもそも、状況によっては「受け止めない方がいいこともある」という人もいるでしょう。

食事などでも「食べることを楽しむことが大事」と言われますが、「楽しければほとんど食べられなくてもいいのか?」「そもそも色々な味を試さないと味覚の発達に繋がらない」など、どこまで食べさせるかなどは議論になりやすいところです。

こう考えてみると、「よい保育」の定義は非常に曖昧なことがわかります。

「よさそうな保育」はたくさんありますが、確実に「よい保育」とまで言えるものはなさそうです。

そうでなければ、保育観や教育観で揉めることはないのでしょうから。

でも、これでは堂々巡りで、まったく話が進みません。

そこで出てくるのが現象学という哲学の考え方になります。

現象学という哲学

「よい保育」を考えるうえで、中核となる考え方が、この現象学です。

現象学とは「今、自分が見ていたり感じていると思っていることは間違いない絶対のもの」という考え方です。

少しわかりづらいと思いますので、いくつか例を出してみます。

自分が赤だと思って見ているものは、「赤」という万人共通の絶対の色があると思いますか?

残念ながらそんなものはありません。

他の人は、自分の世界では「青」だと思っている色合いを「赤」だと言っているのかもしれません。

もしくは、自分の目を通したらそう見えているだけで、自然界に存在する赤は全く違う色合いなのかもしれません。

なんなら、自分が見ているものすべて、夢であり、実在しない可能性すらあるのです。

人間だと思っていた自分は夢で、起きたら犬だった。

そんなことになったら、そもそも自分自身の存在すら絶対ものではないのです。

そんな中で現象学はある絶対のものを見つけました

それが、自分自身が感じていると「思っている」ことです。

もし、この世界が夢の中だとしても、今現在自分が何かを見ていたり、考えたりしていると「思っている」事実は絶対のものです。

絶対の「赤」が存在しないとしても、自分が「赤」だと「思っている」ことは絶対の事実でしょう。

哲学では、考えを広げていく出発点として、「否定することができない絶対のもの」を、その出発点にしなければいけません。

現象学とは、「今、自分が見ていたり感じていると思っていることは間違いない絶対のもの」を出発点として考えていく哲学なのです。

現象学とよい保育

では、現象学から考えた「よい保育」とは何なのでしょう?

先ほども述べた通り、現象学の視点では万人に共通する絶対のよい保育は存在しません。

現象学の視点で絶対的に存在するのは「自分がよいと感じる保育」だけなのです。

少し振り返ってみてください。

哲学的な「よい保育」が思いつかなくても、これまでに自分が受けてきたり、勉強してきた中に、

「これはよい保育だな」

「あの先生のこの保育はすごくよいな」

と思える保育はあったはずです。

この感覚は、現象学の中で絶対のもの。

その保育を「いいな」と感じた気持ちは、だれにも否定できないものなのです。

とはいっても、自分がよいと思っているから、それは絶対によい保育だとなるわけではありません。

知らないだけで、もっとよいと思える保育があるかもしれないし、

Aくんにはよい保育になっても、Bくんにはよくない保育になることだってありえます。

時代によっても、よい保育は移り変わっていくでしょう。

それでは、どうしたら自分の感覚だけではない、より広い意味での「よい保育」を作っていけるのでしょうか?

よい保育に重要なことはすり合わせ

よい保育を作るために必要なこと。

それは、よいと思っている保育同士をすり合わせていくことです。

自分の中の「よいと思っている保育」と、相手の中の「よいと思っている保育」をすり合わせ、「よりよい保育」へとバージョンアップさせていく。

それを繰り返すことでしか、「よりよい保育」は生み出していけないのです。

けれど、実はこれって普段からやっていることでもありませんか?

  • 本や研修で学んだ他の先生の保育を、自分の保育に取り入れてみる。
  • 園内で子どもへの対応を話し合う
  • 担任同士で保育の目標や方向性を決める

そして、これが出来ていない時って、保育の質が低下しやすいタイミングでもあったりします。

現象学は「よりよい保育」へと向かう、その営みの重要性を理論的に示してくれているのです。

保育には絶対も正解もない

保育者は経験を積んでくると、自分の中での保育パターンが確立してきたりします。

すると、後輩に教える時や、保護者の相談に乗る時に、自分の保育を正解と思って伝えがちです。

たくさんの保育・教育・子育て関連本を読み、一つの考え方が正解だと思ってしまう人も少なくないでしょう。

それらは、間違いなく貴重な理論であり、保育実践であり、考え方です。

ただ、忘れてはいけないことは、「保育には絶対も正解もない」ということ

そう思ってしまったら、そこで保育は止まってしまいます。

あとは時代遅れで柔軟性のない保育になっていくだけでしょう。

世界には数えきれないほどの保育があります。

そうした様々な「よい保育」と、「自分がよいと思っている保育」をすり合わせ、「よりよい保育」を作っていく。

その「よりよい保育」をさらに「よりよい保育」とすり合わせ「もっとよりよい保育」にしていく。

こうして少しずつよくしていくしか、たくさんの人にとっての「よい保育」を作っていく方法はないのです。

まとめ

いかがだったでしょうか?

今回は保育者の永遠のテーマである「よい保育」について、現象学の視点から考えてみました。

これまで考えても考えても堂々巡りになってしまっていた「よい保育」。

そこに非常に明快な真理をもたらしてくれたように思います。

同時に、他の人がどう言おうと「自分がよいと思っている保育」は「よい保育」だと言ってもいいという勇気をくれるものにもなっています。

それは同時に他の人が「よいと思っている保育」もまた否定できるものではないということでもあります。

互いの「よい保育」を認めつつすり合わせ、「よりよい保育」を作っていく。

これはまさに民主的で、子どもにも伝えていきたい、これからの時代に必要な保育の形でもあるのではないでしょうか?

今回参考にした『学問としての教育学』では、哲学的な定義を元に、個別例になりやすい教育実践を科学的に有用なものとするための方法など、より深く専門的なことまで書かれています。

ぜひ、今回の記事を読んで興味を持った方は、手に取ってみてください。

内容がかなり学問的・哲学的なのに、とても読みやすいのでおすすめです。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

参考文献

コメント

  1. 縄文ルネッサンス より:

    いつもここに訪問できて感謝しています。
     ≪…現象学の視点では万人に共通する…≫を、神話の世界から言葉の世界と数の言葉の世界に触れる。

      [ 蜻蛉(アキヅ)の臀呫(トナメ)の如くにあるかな 】を、「桜舞乱心*いろは詩」の[いろは詩]と[ひふみよ詩]の戦禍の決着を言葉の世界の[点線面]と数の言葉の世界の[ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と、]に想う・・・
     [ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と、]の縄文文様のようなモノは、『幻のマスキングテープ』になり数の進む方向を[ 獲つること ]になるが、模様の一致で [ 蜻蛉(アキヅ)の臀呫(トナメ) ]をすると[メビウスの帯]に生る。
     数の言葉ヒフミヨ(1234)は、三種の神器(勾玉 剣 鏡)を内包し・させている。
     大和(ヤマト・矢的)のモノリスを[吾唯足知・吉呼員和]とすると、「開運招福の石」が有明山神社にあり『ヤマトのモナドの杜』にしたい・・・

    • こちらこそ、楽しい時間をありがとうございます。
      言葉の中身を調べつつ読んでいたのですが、「蜻蛉(アキヅ)の臀呫(トナメ)の如くにあるかな」は日本書紀の言葉、「桜舞乱心*いろは詩」はKOTOKOの歌、「吾唯足知・吉呼員和」は有明山神社の開運招福の碑だと仮定しました。
      もしそうであれば、全く違うジャンルを結び付ける発想力の凄さを改めて感じます。
      「縄文文様のようなモノを、マスキングテープに見立てて、トナメのように接続すると、メビウスの輪のようにループする」という解釈でいいのでしょうか?また、「三種の神器を内包し・させている」の部分はどういうことか思いつきませんでした。
      「吾唯足知・吉呼員和」は初めて聞いた言葉でしたが、本当に素敵な言葉で日本の中心に据えてもいいなあと思います。

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