お元気様です!
登る保育士ホイクライマーです。
みなさんは「子どもは遊びを通して学ぶ」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?
保育士や幼稚園教諭の方は、保育指針や幼稚園教育要領に書かれているので知っていると思います。
また、一般の家庭にもかなり浸透してきている考え方だと思います。
そして、同じくらい「自由に遊ぶ中で、色々なものに興味を持ち、主体的に関わる中で学んでいく」という、自分からの学びということも大切にされていることでしょう。
いわゆる公園や室内での、自由遊びというものですね。
これらは、保育指針や教育要領に載っていたり、多くの保育書・育児書にも書かれていることなので、当たり前のこととして取り入れられがちです。
なにを隠そう、ぼくもその一人で、自由遊びをできるだけ増やし、子ども自身が好きなように遊べる時間を大切にしてきました。
けれど、ある本に出会い、その考え方がいかに既成概念に囚われていて、教育の本質を見ていなかったかに気付かされることになったのです。
その本とは『教育臨床への挑戦』(著:青木久子)という、保育の歴史をひも解き、先人たちが考え積み重ねたものから、現代の保育を考えるというもの。
そもそも、保育指針や教育要領も、先人たちの新教育運動の末に誕生したものなので、現代保育の原点を探ることでもあるのです。
そこには、現代の保育指針や教育要領からは読み解けない、これらの中に眠る、保育・教育の原理や思想がありました。
この根底にあるものを知っているかどうかで、幼児教育の質や考え方は大きく変わることでしょう。
- 幼児教育ってなにを目指したらいいんだろう?
- 自由にさせていれば、子どもは育つの?
- 自由遊びが一番いいいの?
そんな疑問を持ったことがある人には、とてもおもしろい内容になっていると思いますので、ぜひ見ていってください。
それではいってみましょう!
現代教育の根底にある「新教育」
まずは、教育を語る上では欠かせない新教育について見ていきましょう。
プラトンやソクラテスに始まり、人類は教育について様々な考え方を展開していきました。
その中でも、現代教育に繋がっている、もっとも新しい教育論が新教育と言えるでしょう。
みなさんも、ルソー、フレーベル、デューイ、倉橋惣三などの名前を聞いたことがあると思います。
これらの人はみな、新教育を世に広めるため、新教育運動を起こした人たちなのです。
では、新教育とはなにか?
それはかなり簡単に言うと、
- 子どもには子ども独自の価値があり、子どもにふさわしい教育がある
- 子どもは自分から興味を持ったものと関わり、自分で学ぶ
- 子ども時代にふさわしい教育によって、健全な人間へ育っていく
という考え方です。
そして、これらを実現するために、幼稚園などの幼児教育機関を作り、教育実践を行い、幼児教育を理論化・体系化していったのが、新教育運動だったのです。
それまで、子どもは「小さな大人」として、厳しく大人同様にしつけられてきた時代を考えれば、この考え方の転換は革命と言えるでしょう。
こうして新教育の考え方が、世界に広がり、日本でも倉橋惣三など様々な実践者が現れ、たくさんの幼児教育機関が作られ、実践が行われていきました。
けれど、日本では、ある大きな問題が起こりました。
戦後、幼稚園や保育所の需要が大幅に増え、それらが大量に作られる時期がやってきたのです。
その中で、幼児教育の具体的方法を教師に伝えることが中心となってしまい、「なぜ」それをするのかといった、理念や原理を育んでいく機会を逸してしまいました。
やがて、理念や原理が宙に浮いたまま、保育指針や教育要領として、基準や方法論がまとめられていきます。
こうして、「自発性が大切である」「遊びを通して行うことを基本とする」という文言へ、「なぜそうしないといけないのか?」という疑問を持たず、保育指針や教育要領に沿って保育をすることが当たり前となっていきます。
新教育においての「自由」
では、新教育運動をした人々は、「なぜ?」自主性や遊びが大切だと考えたのでしょうか?
それは、教育の目標を、子どもたちが「自由」を獲得することだとしたからです。
この「自由」が今日の「自由遊び」や、「子どもを出来るだけ自由にさせる」という考えなどに受け継がれていると考えられます。
ですが、ここにも大きな勘違いが発生しているのです。
新教育が目指した自由というのが、かなり簡単に言うと、
「善悪含めて、自分というものを自由に扱える自分になる」
ということで、そのために、
「生活の中での経験や、自然との触れ合いを通して、学び、人格を自分自身で練り上げていく」
ことが大切だとし、
「人格を練り上げたことで、悪いこともできるけれど、その上で善い行いを選ぶ人間になる」
ということを目指しているのです。
ここでまず重要なことは、子どもが行動する時、善悪の判断を大人がしないということ。
「いい子」「悪い子」や「いいこと」「悪いこと」という基準で教育をせず、それを子ども自身が判断できるようになるのが大切ということですね。
例えると、友だちを叩いた時に、それが「悪いこと」だと叱るのか?、相手の反応を見て考えさせるのか?ということなどが考えられます。
次に重要なことが、遊びの中だけで学ぶわけではないということです。
ぼくたちは、「学びのために遊びを通さなければいけない」と思い込んでいる節があります。
けれど、新教育のなかでは遊びと生活は一体となっています。
生活が遊びに繋がり、遊びが生活に繋がるのです。
そのため、新教育運動時代のカリキュラムには、多くの園に労作が取り入れられています。
毎日の畑仕事の時間など、今の感覚で言うと「遊び」というより「お手伝い」「仕事」の時間が決められているのです。
こうした時間があることで、子どもたちは楽しいだけではなく、その苦労や、自然の厳しさを経験的に学んでいきます。
この経験が人格を練り上げることや、遊びを発展させること、生活を充実させることへ繋がっていきます。
遊びと生活と自己を練り上げること。
これらが循環して、生きた人間を育てていくのです。
最後に重要なのが、経験することを大切にしているということです。
労作を通して、畑仕事など何かを作る大変さやおもしろさを経験します。
水を出し過ぎて濡れる経験から、水の出し加減を学びます。
夏の暑さやその中で生き生きとする動植物、冬の寒さやその中で息づく動植物を、実際に遊びに行く経験を通して学びます。
そこには大人からの教授よりも、子ども自身で経験することが重要視されているのです。
これに関しては、「意識しているよ」と思われるかもしれません。
ですが、手洗いする前に「袖まくってね」という声掛けや、「それすると服汚れちゃうよ」という言葉はよく保育現場で聞こえてきます。
これらの言葉はまさに教授が先で、経験があととなってしまっています。
ケンカの仲裁などでもよくあるでしょうか。
ぼくたちは、「経験」と考えている範囲をもっと広げないといけないのかもしれません。
こうして3つの大きな誤解の末に、「自由遊びが大事」「自由に遊ぶ時間を持てば、子どもは自分で学んでいく」という考えのもとでの「自由遊び」が行われるようになってしまいました。
ですが、これを新教育の中では、この「拘束されない自由」を「消極的自由」だと言います。
そして、「消極的自由」を目指すのではなく、自分で自由に考え、行動を選び取る「積極的自由」を育てていくべきだと。
この考え方が保育指針や教育要領の根底にあることを知ることで初めて、これらに書かれている内容を「なぜ?」実践するのか?
どんな実践にしていけば、子どもの積極的な自由を育てることができるのかを、考えることができるようになるのではないでしょうか?
「積極的な自由遊び」を考える
ここまで「自由」に関する勘違いについて見ていきました。
「自由遊び」の形骸化してしまっている部分があることもお伝えしました。
ですが、「自由遊び」そのものが悪い訳ではありません。
むしろ、その重要度は高いと言えるでしょう。
では、どんな自由遊びならいいのでしょうか?
ここではただおもちゃで遊ばせることを「消極的な自由遊び」、理念を持って環境を整え遊ばせることを「積極的な自由遊び」として考えていきたいと思います。
まず、積極的な自由遊びに最も重要なのは環境です。
室内であれば、子どもが興味を持つものを配置するというのは前提として、そこからどんなことを学んでほしいのかを考えることも大切です。
例えば、形の感覚を学んで欲しいのであれば、四角、丸、三角で構成された積み木は最適です。
イメージを広げて遊んでほしいのであれば、ままごと用の食べ物セットではなく、赤い球体などを置いておけば、ある時はリンゴやイチゴ、ある時は転がす用のボールになるでしょう。
制作コーナーを作る時、材料を全部用意すれば「表現」と「消費」を、廃材を家から持ってきてもらうようにすれば「リサイクル」を、紙を置かず、紙すきセットを置いておけば「生産」を経験する機会となります。
戸外であれば、園庭に四季それぞれに咲く花や木を植えておけば、四季と動植物の関係性を経験する機会になります。
園庭がなくても、公園を選定し、季節に咲く動植物に合わせて散歩に行けば、同様の効果が得られるかもしれません。
また、公園ではなく地域全体を活動圏とすれば、地域と遊びと教育が繋がっていくでしょう。
ただその時の気分で公園を決め、遊具で遊ぶだけでも、もちろん子どもたちはたくさんの経験をして学びます。
ですが、理念を持ち考えた上での戸外活動とは、大きな質の違いがうまれることはわかっていただけるのではないでしょうか?
このように、同じ遊びを展開するのでも、そこにどんな理念があるかで、まったくアプローチや学ぶことが変わってきます。
そしてもう一つ、「積極的な自由遊び」に重要なことがあります。
それは保育者の関わり方です。
新教育の非常に重要な考え方に、「意欲を意志に育てる」というものがあります。
簡単に言うと、
- 意欲は子どもが興味を持っている状態
- 意志はその興味がより強くなり夢中になって取り組んでいる状態
と言えるでしょう。
要するに、用意した環境に子どもが興味を示した時に、保育者がどう関わるかということになります。
例えば、興味の芽が感じられた時に、それをより深く調べるために関連するものを環境に追加する。
話を聞いて、その興味を共有する。
自分で意欲を意志に変えて行けそうなので、関わらずに見守る。
など、色々な関わり方が考えられるでしょう。
ですが、どの関わり方にも共通しているのは、子どものことを「見ている」ことです。
「見ている」から意欲を感じ取り、その後の関わり方を考えられるのです。
「消極的な自由遊び」は、放任になりがちです。
今一度、「自由遊び」について考える必要があるのではないでしょうか?
もちろん、ぼく自身も含めて。
また、ここでの自由遊びについての考え方は、すべての遊びに共通します。
保育者主導の遊びや、運動会や発表会の遊びなど、すべての遊びについて考えなければならないことです。
「遊びを通して子どもは学ぶ」ことは前提として、「遊びを通して‟なに”を学んでいるか?」「その遊びを通して‟なに”を学んで欲しいのか?」ということまで考え、観察する視点が必要なのです。
遊び×生活
さて、ここまで遊びについて重点的に考えてきました。
ですが、新教育運動の中で、もう一つ忘れてはいけないのが「生活」の重要性です。
そもそも先人たちが旧教育を批判した内容の一つに、学問知の詰め込みが挙げられます。
幼児期は読み書きや計算などを教えるのではなく、普段の生活から読み書きや計算など学問知の基礎となることを遊びながら経験し、自ら学ぶことが大切だと考えたのです。
これはまさに「生きる力の基礎を培う」ということと同じ。
保育指針などとも共通の部分でしょう。
しかし、現在はこれが遊びに傾き過ぎているように思われます。
「遊ぶ時間をできるだけ増やす」ということに意識が向いて、生活に関してはあまり意識されていないように感じられるのです。
ぼくが4歳児を持った時のことですが、生活の重要性を強く意識したできごとがあります。
それは進級したばかりの4月。朝の会で、自分のイスに座る場面でした。
いくつかイスが机に置いていなくて、部屋の隅に置いてある日がありました。
そこでイスが無かった子がどうしたかというと、「イスが無いんだけど」と文句を言って、立ち尽くしているのです。
視界に入るところに、誰も使っていないイスが人数分ありますが、自分で持ってこようとはしません。
これまで、「イスは先生が持ってきて用意してくれるもの」だったからです。
この子たちは、もちろん遊ぶ時間には自分から遊びを展開できます。
ですが、生活にはびっくりするほど、その主体性は反映されていませんでした。
おそらく「生活」に関しては、自分が主体になっていなかったからなのでしょう。
このように、生活を自分たちで作っていくという感覚が希薄だと感じる場面は結構あります。
みなさんも、それを感じたことがあるのではないでしょうか?
もちろん、新教育運動の時代が考えていた労作と、今の労作は違うと思います。
新教育運動の頃は、畑仕事を経験し、親が家財道具などを作ったり修理したりするのを見て、自分も手伝う中で経験を積み、色々なことを実感・体得していくことが、自分を練り上げることや、生活に繋がる、と考えられていました。
今の時代では、これらは直接には生活に繋がらないでしょう。
ただ、ここで考えなければいけないことは、「それを踏まえた上でどんな生活体験が必要なのか?」ということです。
今の時代にも、幼児教育の現場では、畑仕事や食栽が取り入れられています。
これは「自分が食べるものがどこから来ているのか?」を知り、育てる大変さや、生命の神秘を感じるといった不変的な学びがあるからでしょう。
工作などをするのも、形や物の接続など、多くの物理法則や道具の扱いを学ぶのに昔から変わらない価値があるからだと思います。
また、ICT化の進んだ現代だからこそ、新たに見聞きできるものや、より深い調べ方から生活を深める方法もあるでしょう。
自然が減り、生活のスピードが速くなった現代だからこそ、昔ながらの生活体験をする必要があるかもしれませんし、現代だからできる生活の形もあることでしょう。
どちらにしろ、ぼくたちが考えなければならないことは、子どもたちが生活する主体となれるような生活環境をどう作るのか?ということです。
ぜひ一緒に、1日~1年の計画を見直し、生活と遊びの関係性を考え直してみませんか?
まとめ
いかがだったでしょうか?
今回は現代の幼児教育の根底を作った新教育運動について見てきました。
その考え方は、保育指針や教育要領に受け継がれていますが、「なぜ?」という理念が抜け落ち、守るべき幼児教育の方法論や法律となってしまいがちです。
これらの根底にある「自由」「主体性」「遊び」「生活」そんな理念を、新教育を作っていった人々の熱い魂を感じていただけていれば、嬉しく思います。
また、その理念を知った上で、自分の教育理念を持ち、実践を組み立てていくことが本当の意味での新教育であり、保育指針や教育要領を本当の意味で使いこなすことにも繋がるのでしょう。
ぜひ、「‟なぜ”それをするのか?」、「”どうやって”それをするのか?」、「それを通して子どもは‟なに”を学んでいるのか?」を考え続けていきたいですね。
本書では、新教育運動に参加した多くの人物や考え方、その実践が紹介されていて、現在の保育指針や教育要領の根底をより深く知ることができる内容となっています。
日本の教育・保育の歴史から保育の未来まで、連続した時間軸で見ることができ、大きく視野を広げてくれる1冊となっているので、この記事を見て興味を持った方はぜひ手に取ってみてください。
最後まで見ていただきありがとうございました!
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