子どもに対して保育をすると行き詰る!?保育のジレンマ【教育・哲学】

保育

お元気様です!

登る保育士ホイクライマーです。

年度終わりのこの時期は、1年間の子どもの成長を強く感じる時期ですよね。

ぼくも、昼寝明けの2歳児クラスに行った時、「おはよう」が「おたよー」になってしまっていた子に、「おたよー!」と声を掛けたら、「おたよーじゃなくて、おはようだよ。」とものすごく冷静にツッコまれました。

言葉も心もあっという間に成長してしまい、頼もしいけど、少し寂しい・・・。

さて、そんな一年間を振り返る時期だからこそ、考えてみたいことがあります。

それが、「なにに対して保育をするのか?」ということ。

「そんなの子どもに対してに決まってるでしょ!」という声が聞こえてきそうですが、本当にそうなのでしょうか?

そこで今回は、保育の対象を、「子ども」ではなく「場所(トポス)」にしてはどうだろうかというお話をしていきたいと思います。

きっと保育をしている中で、保育者は色々なジレンマを感じていると思います。

例えば、

  • 「子どもの主体的な遊び」対「保育士主導の活動」
  • 「養護」対「教育」
  • 「教える」対「教えない」

もちろん、これらを程よく混ぜ合わせながら、日々の保育をしていると思います。

ですが、その中でどちらの比重をあげるかという葛藤は、常にあるのではないでしょうか?

これらに新たな光を差し込んでくれるのが、保育の対象を「場所(トポス)」へと転換する視点となります。

ぼくも、当たり前に「保育の対象は子どもだ」と思っていたのですが『脱学校化社会の教育学』(著:磯部裕子+青木久子)という本を読んで、大きく見方が変わりました。

今回の記事は本書を元に、お話していきます。

この「場所(トポス)」という考え方を知れば、子どもだけでなく、保育そのものや、保育園・幼稚園の見え方までも変わってくることでしょう。

ジレンマの解消にも役立つかもしれません。

ぜひ、最後まで楽しんでいていって下さい。

それではいってみましょう!

対子どもへの保育

まずは子どもへ保育をすることについて、考えていきましょう。

子どもに対して保育をすると、

「教える人と教えられる人」

という関係が前提となります。

大人は子どもに色々なことを教え、子どもは色々な能力を身につけていくという考え方を基本とするからです。

それぞれの子どもの中で、様々な発達が起こっていくと考える発達心理学的な見方も、この考え方に基づいていると言えるでしょう。

ただ、そうなってくると、先ほど挙げたジレンマに突き当たります。

主体的に学んでほしいと思っても、ほぼ必ず「教える」場面が出てきてしまうからです。

「その子の発達のために、これを教えたほうがいい」

「将来困らないために、これを教えておこう」

そういった考え方になりがちです。

なによりも大きな問題点は、

保育者が「子どもは未熟な存在だから、教えるのが当たり前」と自然に刷り込まれてしまうところにあります。

つまり「大人は教える人」「子どもは教えられる人」という関係が固定化されてしまうのです。

すると、保育所は学校化してしまいます。

「生活し遊ぶ中で主体的に学ぶ存在」ではなく、「大人から教えられることで学ぶ」存在となってしまうのです。

まるで授業で知識を教えられる生徒のように。

毎日の活動などは、その最たる例かもしれません。

もちろん、それが悪い訳ではなく、子どもたちの新しい発見に繋がっていることもあるでしょう。

ただ、子どもの生活と連続性がないその時間だけの遊びになってしまったり、やりたくないという子どもがいる中で「できるようにさせる」という気持ちがでてしまうなど、「教える」「なにかをできるようにする」という気持ちで活動をする機会が多いのも事実だと思います。

ですが、本来理想としているのは、子どもが興味の赴くままに遊び、発見し、その中で課題にぶつかって、それを様々な方法で解決していく

その中で、生活に根差した問題解決能力や、対人能力を身につけていくことだと思います。

こうして身につけた能力こそが、生きる力の基礎となるのだと。

けれど、「教える・教えられる」関係性の中では、それが難しいのです。

こう書いていくと、「いや、生活の中や自由遊びの中で、主体的に友だちと関わり学んでいる場面もあるよ!」という方もいると思います。

もちろん、全て教えているわけではないし、主体的な学びもたくさんしていることでしょう。

そして、それを好ましくも思っているはずです。

今回のメインとなる「場所(トポス)」という考え方は、まさにそういった学びへと中心をシフトするための考え方になります。

場所(トポス)へ保育するってどういうこと?

では、「場所(トポス)」へ保育するというのはどういうことなのでしょう?

まずは、「場所(トポス)」について説明していきます。

これはもちろん物理的な場所ではありません。

物理的な場所も含んだ、「文化や生活全体が息づいている場所」のことです。

例えば「家」を「場所(トポス)」と考えた場合、親子の関係や家庭での教育・生活文化も含めた「場所(トポス)」となります。

もし「家」で朝食を食べる文化が無ければ、その「家」で育った子どもには、朝食を食べる習慣は身につかないし、その必要性すら知らないでしょう。

もし「家」の教育方針が、全部教える形だったら受け身で学ぶことを身につけ、図鑑などがたくさんあり自分で調べる文化だったら主体的に学ぶことを身につけることでしょう。

もちろん、家だけではなく「地域」「保育所」「学校」などがどんな「場所(トポス)」かも、成長に大きく影響を与えます。

ということは、「場所(トポス)」によい文化を根付かせれば、そこで育つ人にもよい影響を与えるということにもなる。

つまり、「場所(トポス)」について考え、そこへ保育することで、子どもたちが自分で育つ環境を作っていこうというものなのです。

実はこれ、保育者は無意識にやっている部分があります。

そう、環境設定です。

子どもが自分から興味を持って関わったり、調べたりできる環境を作る。

これはまさに「場所(トポス)」について保育をする考え方そのものと言えるでしょう。

ここでもう一つ、「場所(トポス)」について保育をすることによる、大きな変化があります。

それが、保育者と子どもの関係性です。

「場所(トポス)」に保育をするということは、子どもに保育をしないということ。

すると「教える人」と「教えられる人」という関係性が解体されます。

では、どんな関係性になるのか?

それは「共同生活者」の関係になります。

保育者は「場所(トポス)」に働きかけ、土壌を作ります。

そこに子どもたちが、関わり、色々な遊び、興味関心を芽生えさせます。

その中で、さらにやりたいことや課題が出てくるでしょう。

そんな時に、相談に乗ったり、協力したり、一緒に学んで考えるのが共同生活者としての保育者の役目です。

そこでは必要に応じて教える人にもなるし、子どもに教えられる人でもある。

その時々によって「教え・教えられる」対等な人間関係になります。

これはまさに社会と同じ関係でしょう。

できることは教え、できないことは教えてもらう。

そんな対等な関係を築く文化が生まれます。

きっと、この考え方の転換をすると、

「行儀が悪いから、こうしなさい」

「ちゃんと先生の話は聞きなさい」

そんな言葉は出て来なくなるのではないでしょうか?

だって、保育者もその「場所(トポス)」一緒に作り上げる子どもと対等な一員なのですから。

どんな場所(トポス)=文化を作りたいのか?

最後に、「場所(トポス)」を考えるうえで、一番大切なことについて考えていこうと思います。

それがどんな「場所(トポス)」にするかということ

なぜなら、どんな「場所(トポス)」で子どもを育てたいのか?

どんなことを経験して、成長していってほしいのかが決まっていないと、その「場所(トポス)」を作るために、どんな環境で保育をしていくかも決まらないからです。

例えば、子どもが育っていく地域やその文化を「場所(トポス)」としたいと考えた園は、商店街へ散歩に行って、その地域の人になにかを教えてもらう機会を保育の中心としていました。

例えば、子どもが自由に好きな場所に行き、好きな遊びをする中で、子ども同士の学び合いをして欲しいと思った園では、クラスという枠組みをなくし、好きな場所で、好きな子とを、好きなだけ遊べる環境を作っています。

その場所での生活は、その場所ならではの文化や考え方を生み出し、それが受け継がれていくことで「場所(トポス)」となります。

こんな話を聞くと、「うちは園舎が狭いから・・・」「園庭がないから・・・」などの悲観的な声が聞こえてくるかもしれません。

けれど、園庭がないからこそ、一年を通して、近くにある同じ木の絵を描き続けることで、身近な自然に愛着を持ち、大切にする心を持つという「場所(トポス)」を作り上げた園もあります。

さらには、園舎を捨てて、自然の中で一日を過ごすことで、子どもの心を開放して、自然から学ぶという「場所(トポス)」を作り上げた園すらあります。

そんな思い切った発想だってできることを考えれば、それぞれの園でそれぞれの制約がある中でも、「場所(トポス)」を作ることはできると思えてくるのではないでしょうか?

重要なのは、「どんな経験をして子どもたちに育っていってほしいのか?」「そのためにどんな場所(トポス)を作っていくのか?」を保育者一人ひとりが考え、他の保育者と相談し、園全体として統一していくこと

それが決まれば、活動や環境設定の内容も大きく変わり、それにより「場所(トポス)」が作り上げられていくというサイクルが出来上がることでしょう。

まとめ

いかがだったでしょうか?

今回は、保育者と子どもの関係を「教える人・教えられる人」から「互いに教え・学びあう共同生活者」へと転換する「場所(トポス)」へ保育をするという考え方を紹介してきました。

ぼく自身、この考え方に出会うまでは、「保育者として教えなきゃ」「子どもの発達を促さなきゃ」という思いと、「子どもが自由に遊ぶ中で学ぶことを重視したい」という思いの間で揺れ動いていました。

その結果、教え過ぎたり、教えなさ過ぎたり・・・。

今思えば、もっと楽しく子どもたちがより多くのものを学ぶ機会があったのだろうなと悔やまれるところです。

けれど、この「場所(トポス)」という考え方に出会い、教える・教えないについて、肩ひじを張って考える必要がないことに気付かされました。

共同生活者として、ともに過ごしていく中で、互いに教え合えばいいだけなのだと。

そもそも、それはとても表面的な部分で、もっと根源的な問題として、どんな文化の中で子どもたちに育って欲しいのか?

そのためにどんな「場所(トポス)」を作っていくべきか?

そちらの方が重要な問題だと。

さらに「場所(トポス)」という考え方をしていくと、「子どもの権利や人権」「子どもの持つ本来の力」というものへも自然と目が向けられます

そういう意味でも、学校的な教え方に傾きがちな日本の保育に、非常に重要な考え方となるのではないでしょか?

この記事では、『脱学校化社会の教育学』の中から、「場所(トポス)へ保育をする」という部分を中心に紹介していきました。

本書の中では、そもそも、「なぜこの社会は学校化されているのか?」「その問題点はどんなところにあるのか?」「それが幼児教育にどんな影響を与えているのか?」といった部分も、詳細に描き出されています。

記事を読んで興味を持った方には、とてもよい学びになると思うので、ぜひ本書を手に取ってみてください。

きっと保育の視野が大きく広がると思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

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