お元気様です!
登る保育士ホイクライマーです。
ここのところ、不適切な保育がニュースで取りざたされています。
それに伴って、不適切な保育への調査や、ガイドラインなども発行されました。
その中で浮き彫りになってきたのが、「不適切な保育の定義が曖昧」だということ。
自治体によって、保育所によって、その定義がまちまちなのです。
今回、不適切な保育の調査を受けて「不適切な保育の未然防止及び発生時の対応についての手引き」というガイドラインが発行されました。
全国保育士会からは「人権擁護のためのセルフチェックリスト」というものも出されています。
しかし、チェックリストに示されている、不適切な保育とされる項目も、現場から見ると疑問が出るものも多数あるのが現状です。
そこでこの記事では、「不適切な保育ってなんだろう?」「不適切な保育って定義できるのか?」について、考えていきたいと思います。
保育士の方にはもちろん、保護者の方にも参考になる内容だと思いますので、ぜひ一緒に「なにが不適切な保育なのか?」について、考えていきましょう。
不適切な保育を定義できるのか?
そもそも、不適切な保育を定義することは可能なのでしょうか?
ぼくは不可能だと考えます。
なぜなら、子ども、保護者、保育士、一人ひとりの価値観や個性・特性が違うからです。
例えば、運動会の練習中の場面で「あとちょっとでできるからやってみよう」という言葉を言ったとしましょう。
これを「励まし」と取るか、「プレッシャー」を感じるか、「強制されてる」と取るかは、子どもや保護者によって違います。
同時に、「目標を持って自分で練習してきた」や「嫌だったけど先生に言われて仕方なくやってきた」という、背景によっても意味合いは変わるでしょう。
このように、前後の文脈を無視し、言動だけに焦点を当て定義してしまうと、保育の幅は狭まり、何も言えない、何も挑戦できない環境になってしまいます。
今のはチェックリストなど、具体的に定義した場合です。
反対に、抽象的に定義した場合はどうでしょう?
「子ども一人一人の人格を尊重しない関わり」のように、大切なのはわかるけれど、具体性に欠けるものです。
これだと、人によってとらえ方や、適用範囲が変わってしまうので、定義づけとしては弱いものになってしまいます。
保育とは、日々、刻々と変化する状況の中、継続的に、一人ひとりに合わせて対応していくものです。
しかも、その内容は遊び、生活習慣、人間関係、音楽、運動・・・と多岐に渡ります。
これを定義しようとする方が無謀なのではないでしょうか?
チェックリストの有用性と危険性
定義はできないと言いましたが、チェックリストなど具体的な行動が示されているツールは大切で、有用だと思っています。
不適切だと思われる具体的な行動を見ることで、自分の保育を振り返ったり、考え直すことに繋がるからです。
けれど、ここで大きな注意点があります。
それが、「チェックリストの項目を、絶対のものだと思わないこと」です。
保育所としても保育士としても。
保育所全体で、チェックリストを絶対の指針にすると、項目に当てはまるものは、背景などを考えず「不適切」とされる危険性があります。
1人の保育士として、チェックリストを絶対視すると、チェックリストに言動が縛られ、新しい保育ができなくなってしまうでしょう。
チェックリストを使う場合は、必ず「参考」にしてください。
「チェックリストには当てはまっているけど、前後の状況や、子どもの個性を考えた場合、不適切と言えるんだろうか?」
「不適切までは思わないけれど、もっといい方法はあったかもしれない。」
など、自分の保育を振り返り、深めるために活用するのが大切です。
これって不適切な保育?
では、実際のチェックリストを見つつ、それが不適切な保育かを考えてみましょう。
今回参照しているチェックリストは全国保育士会「人権擁護のためのセルフチェックリスト」です。
・寝ずに話をしている子どもに対して、外で寝るように言ったり、布団を友だちの布団と離して敷いたりする。
外で寝るように言うのはよくないと思いますが、布団を離して敷くことは不適切なのでしょうか?
注意を引くものがない方が眠れる子もいるし、少しの音(寝息など)が気になってしまう子もいます。
大人であれば、自分の特性をわかって、別室で寝る、耳栓をするなど対処できますが、子どもはそうもいきません。
その点を、大人が子どもに合わせてフォローしているという見方もできます。
・自分から訴えてトイレに行くことができるようになった子どもに対して、「おしっこ出ない」と訴えていても、トイレに行くように促す。
「尿意を自分から言えるようになったこと」と、公園までトイレに行かなくても大丈夫という「見通しを持てるようになったこと」は違います。
「おしっこ出ない」には、「今は出ないけど、もう少ししたら出る」も含まれています。
散歩の前など、「おしっこ出ない」という子をトイレに行かせるのは、全体の遊び時間の確保、おもらし対応で大人の数が減るリスクを減らす、「しばらくトイレに行けないから、念のため行っておこう」という計画性の芽生えなどを考えれば、不適切とは言えないのではないでしょうか?
こんな風に、その項目が不適切になる状況もあれば、適切になる状況もあります。
チェック項目や、不適切な保育の具体例などは、額面通り鵜吞みにせず、「自分だったら・・・」「あの子に対しては・・・」と、参考にして考えることが重要です。
手厚い保育も不適切になりうる
さて、ここまではチェックリストが出来るような、いわゆる「わかりやすい」不適切保育について考えてみました。
これらを防ぐために、保育士の数をしっかりと確保して、子どもと丁寧に関われるようにするという解決策がよく引き合いに出されます。
しかし、丁寧で手厚すぎる保育も、不適切な保育になりうることを忘れてはいけません。
ぼくがある園に異動した時の話です。
子どもからも保護者からも人気の保育士がいました。
その保育士は丁寧で、子どもをよく見て、小さな変化にも気付き声をかけていました。
ただ、子どもが考える前にどんどん声をかけてしまうので、子どもはなにも考えなくても指示通りに動いているだけで、生活を出来てしまっていたのです。
そのクラスが進級した時に、ぼくはそのクラスの担任になりました。
クラスを見ていて驚愕だったのは、ほぼ全員がご飯を食べる順番を自分で決められないし、励まされないと半分も食べられなかったことです。
他の生活場面でも、指示がないと、足りないイスを自分で持ってくるなどもできないありさま。
けれど、園内でも保護者内でも、その先生は「頼りになる」と評判で、子どもの惨状に気付いている人はいなかったのです。
これは、子どもの主体性や考える力の育ちを阻害する、不適切な保育と言えるでしょう。
その恐ろしいところは、人に余裕があるほど生まれやすくなること。
そして、とても気付かれにくいところです。
丁寧な保育をしていると思っていても、自分や周囲の言動が、子どもの主体性へ繋がっているのか?阻害してしまっているのか?
見直してみる必要があるかもしれません。
不適切な保育の防ぎ方
ここまで、不適切な保育は定義ができないということを見てきました。
定義はできないけれど、子どもが傷つく不適切な保育が存在している以上は、防止策を考えなくてはいけません。
人それぞれの価値観がある保育士の保育。
人それぞれな子どもや保護者の受け取り方。
多様性があり過ぎて、画一的な対策では無理でしょう。
では、どうするのか?
結論は、「たくさんの目で見ること」しかないと思います。
保育所の中には、たくさんの不適切な保育の芽があります。
それが世間に出るほど大きくならないのは、芽の時点で第三者が気付き、摘み取ることで成長させないようにしているからです。
むしろ、それは保育の質を上げるための気付きにすらなります。
保育士間のコミュニケーションや、なにかあった時に主任・園長に相談できる環境がある園は、これを自然にやっています。
不適切な保育や虐待は、最初の段階では小さな芽であることが多いです。
それを止められずにいることで、エスカレートしてなんでもありになってしまう。
ニュースで取り上げられている、4時間の給食を食べさせ続けていた事件や、大声で怒鳴りつけるなどの事件も、気付いている人はいたはずです。
それを見て見ぬふりをしてしまっていたから、ここまで大きくなってしまったのでしょう。
どんなに研修を充実させ勉強しても、保育所全体の質を高めても、不適切な保育の芽は絶対になくなりません。
だって、保育は人間同士のコミュニケーションですから。
重要なのは不適切な保育をなくすのではなく、たくさんの目で見て、芽が小さいうちに軌道修正し、保育の質の向上へ転換していくことなのだと思います。
コラム:不適切な保育は「大人にしないことは子どもにもしない」こと?
ある有名な保育士の方が、不適切な保育を「大人にしないことは子どもにもしない」ことだと、一言で表せると言っているのを聞きました。
ここでは、一見、真実味があるこの言葉について、深堀してみたいと思います。
この定義は、叩く、暴言を吐く、口に食べ物を詰め込むなど、わかりやすい不適切な保育に対しては、とてもわかりやすいと思います。
ただ、この定義には、大きな落とし穴があります。
それが、子どもと大人では、世界の認知の仕方が違うということです。
認知とは、わかりやすく言うと見かたのこと。
大人は言葉を聞いて、見通しを持ち、抽象的なことまで頭の中で考えることができます。
ですが、子どもは、目の前にあるものを見て、触って、体感して、五感で世界を見るのです。
大人は考えて、行動します。
子どもは行動して、考えます。
この違いが大きく抜け落ちているのです。
例えば、初めて出てくる食べ物を、子どもは基本的に警戒し食べようとしません。
ですが、嫌がる子に励ましたり、気を紛らわせながら、一口食べさせると味がわかり、嫌がっていたのが嘘のように食べ始めることがあります。
一人ならできるけれど、大勢がいると集中できない子を、少し離れたところで着替えたり、仕切りで視界に映らないようにすることもあります。
こうすることで、一人で出来たという達成感を味わい、自信に繋がることで、大勢の中でも集中してできるようになったりします。
きっと、どれも大人にはやらないでしょう。
大人は、これまでの経験を通して、どうしたらいいか考え行動できるからです。
「大人にしないことは子どもにしない」という定義を妄信しすぎると、子どもにとってのわかりやすさを見失うことになりかねないので、その点はご注意ください。
まとめ
いかがだったでしょうか?
今回は「不適切な保育って定義できるのか?」「どうやったら防げるのか?」の2点について考えてきました。
具体的に定義できないものを防ぐのは、想像以上に難しいことでしょう。
ですが、防がなければいけないことでもあります。
大切なのは、保育園内で自浄作用が機能しておくようにすること。
そのために、最優先で職員間のコミュニケーションの取りやすさ、保育が色々な人の目に触れる状態を意識的に作るようにしていきましょう。
特に、主任や園長への相談のしやすさは重要です。
ぜひ、「今のは不適切かもしれないよ」と、自然に言い合える環境を作っていってください。
結果的に、保育園全体の保育の質向上にも繋がるはずです。
最後まで見ていただきありがとうございました!
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