お元気様です!
登る保育士ホイクライマーです。
みなさんは、否定された経験はありますか?
ぼくは初めて付き合った子に「なんか違った」と、翌日の昼頃に振られた経験があります。
あれは辛かった・・・。
気を取り直して、みなさんも否定された記憶は、基本的にネガティブなものが多いのではないでしょうか?
けれど、その否定が「教える」ということに不可欠だとしたらどうでしょう?
今回は『保育心理学の基底』(著:石黒広昭)という本を元に、教育と否定の関係性を読み解いていきたいと思います。
- 子どもを否定してはいけない
- 自分から学ぶのが大切だから教えないほうがいい
- いい教え方と悪い教え方ってなんだろう?
そんなことを考えたことがある方には、とてもおもしろい内容だと思うので、ぜひ見ていってください。
それではいってみましょう!
「教える」というのは相手を否定すること
まず、否定すると言っても、人格を否定するということではもちろんありません。
ではどういうことなのでしょうか?
みなさんは、そもそも「教える」ということそのものが、「否定」を含んでいることにお気付きでしょうか?
例えば、パズルを初めて触った子を思い浮かべてみてください。
テーブルの上のパズルを床に落として楽しんでいる光景が目に浮かぶことでしょう。
子どもとしては、楽しいのだからこれを続けていればいいわけです。
けれど、これを見た大人は、落とす行為を止め、パズル本来の枠にはめていく遊び方を教えることでしょう。
これは、それまでの「床に落とすことを楽しむ」という子どものやり方を否定し、違う遊び方へ導いているということです。
そうでなければ、自分で新たな遊び方に気付くまで、落とす遊びを繰り返させていればいいのですから。
もちろん、パズル以外の「教える」という行為も同じです。
- 脱ぎっぱなしで遊ぶ→脱いだものをたたんでしまう
- 自分の好きなようにルールを作る→みんなで同じルールのもとゲームをする
- 苦手なものは残す→苦手なものも大きくなるために食べる
すべて、それまでの自分の考え方を「否定」されることで、新たな考え方の獲得を迫られていることがわかるでしょう。
このように、「教える」という行為は、それまでの相手を「否定」して、新たな考え方へ移行させる行為なのです。
抱えとゆさぶり
「教える」というのは、相手を「否定」すること。
ということは教えてばかりいると、相手を否定し続けることになってしまうということでもあるのです。
きっと、みさんもこれまでに、教えてくる人を煙たがったり、腹が立ったりしたことがあるのではないでしょうか?
しかし、反対に、素直に教えを受け入れられた人もいたはずです。
この違いはどこから来るのでしょうか?
その大きなヒントになるのが「抱え」と「揺さぶり」という考え方です。
簡単に言うと、「抱え」とは、相手の現状をそのまま受け止めること。
「揺さぶり」とは、相手の現状を否定し、新たな考え方を促すことです。
この「抱え」と「揺さぶり」は元々、セラピストのクライアントに対する関係を表したもので、保育の中の用語ではありません。
セラピストがクライアントの要領を得ない話を、ただ聞いて受け止め続けることが「抱え」。
十分に「抱え」た後に、その話から要点と思える筋をクライアントに問い返すことで、ただただ話し聞いてもらうことから、自分で考えることへ向かわせることが「揺さぶり」です。
ただ、この関係性は、保育でいうところの「養護」と「教育」の関係に非常に似ています。
「養護」が「抱え」
「教育」が「揺さぶり」
と考えると非常にしっくりきます。
安心して過ごせる養護的環境があるから、新しいことに挑戦する力や意欲が湧いてきます。
つまり、しっかりと「抱え(養護)」られていないと、「揺さぶり(教育)」をかけられた時に、次へ向かう力が発揮されないということです。
これは、学校教育にも使える考え方かもしれません。
なにかを教えようとする時、「子どもたちを十分に抱えることができているか?」を見直すことは非常に重要なことなのではないでしょうか?
そして、子どもを「抱え」られているかを見直す対象は、保育者、保護者、教員、だけでなく、施設や社会も含まれなければならないのではないでしょうか?
教えることの価値
では、あまり教えることをしない方がよいのでしょうか?
それは違います。
なぜなら、教えられることで、まだ能力的にはできないはずのことが、できるようになっていくからです。
みなさんは「発達の最近接領域」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?
かなり単純化して言うと、「あと少し手を伸ばせばできそうな、ギリギリできないこと」です。
この最近接領域ができるようになることで、新たな最近接領域が出てきて、できることが増えていくということですね。
ここで重要なのが、なにかを出来るようになるという場合、「必要な能力を身につけたから出来るようになった」場合と「出来るようになることで、必要な能力が身に着く」場合があるということです。
イメージとしては前者が「学び」、後者が「教える」と考えるとわかりやすいかもしれません。
例えば、前に出した親がパズルのやり方を教える場合。
見本を見ながら、子どもにそのピースがどこの部分かを考えさせたり、
ピースを置く場所が当たりであれば「きっとそこだね!次のピースは?」と、その行動が正しいことを伝え、次を促したりすると思います。
この時、子どもはピースを動かすだけで、この繰り返しの結果パズルが完成するとは思っていません。
つまり、まだパズルを完成させる計画性などの能力はないのです。
この場面でその計画性や見通しを持っているのは親でしょう。
ですが、こうしてパズルを繰り返す中で、子どもは自分ひとりで完成させられるようになっていきます。
これは、親と一緒にパズルを完成させた経験から、パズルを一人で完成させる能力へと繋がっています。
つまり、自分よりも優れた協力者がいることで、能力以上のことができ、それにより「出来る」能力が身に着いたということなのです。
これに似たことは、みなさんも普段から経験があるのではないでしょうか?
トランプを教えたことで、数を数えたり、並べられるようになった。
折り紙を教えたことで、本を見て自分で折れるようになった。
など、教えなかったら出来るようになっていないことや、出来たとしてもかなり先になっていたであろうということが。
教えることで、子どもたちが新たな能力を身につけることができる。
これは教えることの重要な価値と言えるでしょう。
教えることには反発が伴う
ただ、ここで注意が必要なのは、いつも先ほどのパズルの例のようにはいかないということです。
パズルの例では、「教えたい」と「学びたい・できるようになりたい」が同じ方向を向いていました。
それが理想的ですが、そんな状況ばかりではありません。
むしろ、そうではないことの方が多いと思います。
- 着替えの仕方を教える
- 宿題を教える
- マナーを教える
など、子どもは教えて欲しいと思っていないことも多いでしょう。
こうなった時、当然、子どもからは反発が起こります。
では、反発をされても言うことを聞かせればいいのでしょうか?
もちろん、そんなことはありません。
ここで大切なことは、反発の中でも子どもたちが学んでいるということです。
これは、ブロックや折り紙を教えることを自覚的な「学び」とすれば、それとは反対の、無自覚な「学び」と言えるでしょう。
「教えられたこと」に対する反発は、自分の尊厳を守ることや、自立心を育むことに繋がったり、その反発を乗り越えた学びは、その子の中でより意味のある学びになるかもしれません。
いわゆる「非認知能力」というのも、こういう無自覚的な学びから身についていくことが多いのでしょう。
家庭での保育、保育所での保育、学校での教育・・・子どもがいるすべての場で、自覚的な学びと無自覚的な学びが同時に起こっています。
むしろ、同時に起こることが自然であり、自覚的な学びのみを与える環境は不自然とさえ言えます。
「教える人」は反発されるのが、当たり前の反応だということ。
そして、反発も「学び」であることを自覚しておくことが非常に重要なのです。
反発を抑えつけると、教育は貧困になる
では、もし「教えること」と「教わること」が当然で、反発など生まれない状況になったらどうなってしまうのでしょう?
例えば「先生の言うことは聞きなさい」などという言葉は、まさにこの考え方を体現していると言えるでしょう。
- 「先生が話している時は静かに聞きなさい」
- 「かっこよく座りなさい」
- 「好き嫌いせず食べなさい」
これを言う時、「当然守るべきことを教えている」という気持ちがあると思います。
そして、これを続けていると、子どもたちも反発せずに「言うことを聞くのが当たり前」「叱られないために言うことを聞こう」という考えになっていきます。
こうなってしまうと、「言われるからやるだけ」で、一つの学びが他のことに繋がっていくような、広がりを持った学びにはならないことでしょう。
本来、「学び」とは、なにかを学んだことで、これまで見てきた世界を違う視点で見ることができたり、より世界を広げていくものであるはずです。
ですが、反発を許さない学びは、「教える人」という監視者がいなくなれば、すぐに消えてしまう学びといえます。
教えられたことを素直に受け入れることは、貧困な学習でしかないのです。
「教える」ためには「教えられる人」の存在が必要です。
ですが、最初に述べたように「教える」というのは相手を否定することです。
これまで平和に生きてきた人を、「教える」ことは、「今のままではいけない」と学習者に転落させるということなのです。
「教える」ことは子どもの発達にとても意義のあることですが、必要以上に「教えられる人」を作り出していないか?
反発を抑えつけてしまっていないか?
ということを、「教える人」は常に考える必要があるでしょう。
「いい子」を作り出していないか?
最後に、保育所における「教えられる人」について考えてみたいと思います。
保育所ではよく「いい子」という言葉が使われます。
- 先生の話をよく聞ける
- あいさつができる
- おもちゃを貸してくれる
一見すると「いい子」ですが、その動機を深く見てみるとどうでしょう?
- 「うるさくすると叱られるから」
- 「先生が褒めてくれるから」
- 「貸さないと先生が来てなんか言われるから」
もしこんな理由なら、それは貧困な学びと言えるでしょう。
反対に、
- 「話を聞いていないと、なにをすればいいかわからなくなるから」
- 「あいさつをすると気持ちがいいから」
- 「今は違うおもちゃでもいいから」
という理由であれば、広がる学びと言えるのではないでしょうか?
この学びに繋がった要因は色々あると思います。
ですが、その中でも反発があった時の対応は、とても重要な要因だと考えられます。
先生が話している時、子どもたちが騒ぎ始めた。
そんな時に、「なぜ静かにした方がいいのか」理由を丁寧に伝えて納得できるようにしていくのと、「先生が話しているんだから静かにしなさい」と反発を抑え込むのかで、子どもが学ぶことは大きく異なることでしょう。
これは問題(と保育者が思っている)行動でも同じです。
読み聞かせの時間に、先生にかまって欲しくて動き回っている子がいたとします。
その子を膝に乗せて読むなど甘やかしたり、叱るという恐怖で問題行動を抑えることは可能でしょう。
けれど、そこから生まれるのは、「保育者の意に沿う行動をしよう」「保育者に認められよう」という考えをもった「いい子」たちです。
そんな「いい子」たちが、果たして明るい未来を作っていけるのでしょうか?
保育所では、まだまだ安易な「いい子」を育ててしまう土壌があります。
けれど、大切なのは反発も含めた広がりのある学びです。
保育者もいま一度、保育には反発がともなうのが当たり前であるということ。
そして、その反発も含めて、子どもたちの生きた学びになるということを考え直さないといけません。
まとめ
いかがだったでしょうか?
今回は、「教える」ということは相手を否定することだという、少しショッキングな内容をお話していきました。
教え方によっての良し悪しについて考える機会は多いと思いますが、その根本は相手を否定する行為だとは考えもしなかったので、ぼくもとても驚きました。
これは、「教える」ことに携わる人は、絶対に知っておかなければならないことだと思います。
- それを知った上で、どう子どもたちの成長に活かしていくのか?
- 子どもが「学ぶ」ことと、大人が「教える」ことのバランスをどうとっていくのか?
- 反発をどう受け止め、どう関わっていくのか?
といったことと向き合いながら、日々の実践をしていくことが大切なのでしょう。
本書では、実際に保育所で起こった具体例を元に、さらに詳しく具体的に解説していたり、より専門的な目線での解説も載ってます。
「教える」という役割を担うことが多い、保護者の方、保育者の方、教職員の方はぜひ一度、読んで欲しい一冊となっています。
きっと、新しい保育の目線を得ることができるものと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
また、次の記事でお会いしましょう!
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